ミドリナ クォリティ Vol.1 2018.11.01 QUALITY

自然とともに営みがあることの喜びと美しさを
山の頂で淡々と育む入笠牧場管理人 : 三澤 厚さん

長野県伊那市の中心市街地から1時間ほど、車がやっとすれ違えるほどの山道を進んだ頂には一面の緑の原が広がります。
多くの映画やコマーシャルの撮影地に選ばれ、また伊那市の「なつかしい未来」を描いた、移住・定住シティプロモーションプロジェクト、イーナ・ムービーズの撮影場所にもなっている入笠牧場。この場所を管理するのが三澤 厚さんです。

牧場の管理人として入笠にやってきて12年の歳月を過ごしてきた三澤さんの、自然や森についての想い、その美しさと可能性について伺いました。

□  手を掛け、目を掛けるからこそ生まれる美しい風景

「僕は牛飼いだから」。
三澤さんはそう言って、牧場で草を食む牛を優しい目で見つめました。

伺ったのは、4ヶ月に渡って世話をしてきた牛が山を去る数日前。毎年の繰り返しとはいえ、牛と別れるのはやはり寂しいそうです。

「ここに来るのは、だいたい8か月から12、3ヶ月の牛たち。来た当初は言うことなんて全然きかなくて、牛同士で喧嘩したり、人間にあたったりもする。だからね、調教するの。やっと言うことを聞くようになったころに、山を下りていくんだけどね」。

その言葉が指し示す通り、牛たちは三澤さんが鳴らした軽トラックのクラクションに応えるように鳴き、そのあとをまるでペットの犬がなついているかのように追いかけます。

牛が放牧されているエリアから管理棟のすぐそばまでを下る急斜面を差し示す三澤さん。

「ここはね、牛たちが山を下りていくときに駆け下りてくる道になるの。だから誰も気が付かないかもしれないけど、かなりきれいに草を刈ってあるんだよ。けがをしないように」。その斜面にはカヤがびっしりと生えていたといいます。カヤはほかの草に比べて固い繊維質を持つため、これから乳牛として乳を出す牛たちの乳房を傷つけてしまうことがないよう、ていねいに短く刈り取り、そして足にけがをしないよう草は残らず片づけをします。そのために、何日もかけて急斜面を往復するのだそうです。

牧場の管理人と聞くと、毎日山に上がり美しい風景の中で働く、というような牧歌的なイメージを持ってしまいますが、視界の端から端まで広がる牧場を見渡すと、その広大な敷地には整然と打ち付けられた杭がぐるりとならび、牛が逃げ出さないようていねいにフェンスが貼ってあります。美しい景色には、その細部にまで手が加えられているのが目に見て分かるのです。毎日牛の様子を見てまわり、不具合が生じていたら修繕するという日々の行為を、牧場の管理人として当然のように語る三澤さん。

しかし、その広い敷地の全体をたった一人で見つめ、管理するのは並大抵の労力ではありません。しかも、牛の世話や放牧地の管理をするだけでなく、キャンプに来るお客さんの対応や、森の歩道を整備するのも三澤さんの仕事。

「ここに来て12年になるからね、いろいろと手を掛けてきたよ。牛にも、来る人にも安全に過ごしてほしいから」。

山での日常は牧歌的とは程遠いのです。

 

□  未来を見つめたから、守る道を選んだ

入笠山には牧場の他にも湿原や渓流、原生林などがあり、自然の多様な姿を目の当たりにすることができます。

牧場から少し離れたところにある森の中の、テイ沢と呼ばれる川沿いのコースを案内してもらいました。南アルプスの峰々から北アルプス、富士山までを見渡すことのできる牧場の開放的な雰囲気とは一転し、そこは空気のなかにしっとりとした水分をはらんでいました。水の流れる音、土と緑の香り……森から吐き出されるエネルギーが凝縮しているかのような場所です。

沢には丸太橋がいくつもかかっていて、それも三澤さんによる仕事です。

「はじめはキャンプで学生が来るっていうから橋を架けたの。木を切って、皮をはいで、丸太を担いで森に入ってね。危なくないように釘は使わないで、全部番線でとめてあるの。以前は、大雨で掛けてすぐに流されたこともあったね」。

慣れない人であれば、足元を確認しながらそろそろと渡っていく丸太橋も、古希を過ぎているという三澤さんは迷うことない足取りで森の奥へと進んでいきます。

「入笠に来た最初の頃は、観光地にしようと思ったこともあった。でも、その考えはすぐに方向転換したよね。観光地として有名になったら、大型バスがたくさん来るようになる。そうすれば、食べ物や飲み物、お土産なんかも売ることができて、経済としては回るかもしれない。でもそれによって、失われるものは多いということにも気づいた。自然を守る方を選んだの」。

全国各地に自然をウリにした観光地は多くあります。日常から離れて自然と触れ合うということは素晴らしいことですが、一方で、観光地として開発が進むことによって、もともとの山や森、町の風景が一変し、さらには観光というブームにのった挙句、去った後にはすべてがなくなってしまったという事例もあります。

「多くの人が入れば、その分自然には負担がかかる。今、入笠は、コマーシャルや映画などの撮影に使ってもらうこともあるけど、事前に決めた場所以外には足を踏み入れないようにお願いをしている。今じゃなくて、先を見なきゃいけない。だから、きちんと自然の環境を守るっていうことが、これから長い目で考えたときには必要だよね」。

 

□  森の魅力を誰もが体感できる伊那谷

中央アルプスと南アルプスという2つのアルプスに囲まれた谷に伊那はあります。
その風景は当たり前すぎて、それがいかに素晴らしいことであるのかを時に忘れてしまうほど。しかし、その美しさに日々触れている三澤さんだからこそ、感じられるものがあるようです。「若い時はクライミングをしていたから、外国も含めていろんな山を見てきたけど、日本の2,000から3,000メートルクラスの山は、本当にいいよね。ある程度の標高以上になると、森林限界になって木が生えなくなるでしょ。でもやっぱり、木があって、森があって、そういう中にいられるのはとてもいい。入笠は2,000メートル弱の山だから簡単に来ることができるよね。外国みたいに5,000とか6,000メートル以上の山もいいけど、そこまでいくと誰でも行ける山ではなくなってしまう。完全な装備が必要で、体も作る必要がある。もちろん日本の山だってしっかり装備をしてくることは大切だけど、誰でも来ることができる山が身近にあるってすごいことだよ。日本の山岳の美しさがすぐそばにある、それが伊那谷の良さだよね」。

観光地化はしたくないとはいえ、入笠の景色や空気を多くの人と共有したいという気持ちは三澤さんの強い思いでもあります。どうすれば環境に負担を与えず、かつ多くの人に入笠の良さやそこから見える景色を堪能してもらえるのか、日々考えているそうです。「ここは本当に風景が美しくて、この中で働けるなら給料なんていくらでもいいって思ったほど。だから、ここからの眺めをみて、心がほっとするっていう気持ちを大切にしてくれる人が来てくれればうれしいね」。

当たり前にあるからこそ、それを大切に守り残していきたい。入笠の頂が美しいのは、そんな三澤さんの想いによって育まれているからかもしれません。

紹介人

三澤 厚(みさわあつし)

12年前に前任の管理人から受け継ぎ、入笠牧場とキャンプ場の管理および、環境整備を行う。ほぼ毎日更新しているブログでは、入笠の自然が日々移ろう様子や牛たちの日常を発信している。伊那市在住。

「入笠牧場その日その時」https://blog.goo.ne.jp/nyuhkasa

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